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全てにおいて「名」が付く、野村克也氏から教えて頂いたこと

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Hi, I'm Kei.

2020年2月11日建国記念の日、野球界を代表する1人である、野村克也氏がお亡くなりになりました。84歳でありました。選手、監督、ボヤキ、全てにおいて「名」が付く方でした。

 

故人のご冥福をお祈り致します。

 

ついに、この日が来たかと思う反面、野村克也氏をリスペクトしている僕は、やはりショックだ。

野村氏の野球における足跡や功績については今さら語るまでも無い。そして、愛妻家であったことも有名である。

3年前に妻の沙知代夫人が亡くなったのちに、生きている意味も価値も見出せない、といった発言や、今は好きなものを好きなだけ食べている、体に気を付けても意味がないから、という趣旨の発言をされていた。

とはいうものの、妻のおかげで今もこうして仕事があり、張り合いとなって暮らせている、といった発言もされている。

 

僕は今、野村克也氏の事を思うと「生と死」について考えずにはいられないのである。

「死」は、失うことである。人は死を選べないし、選ばない。

いつ死ぬのかを予測するのは、人為的な、それはある種強制的な要因、過去で言うと武士道に準ずるようなことであったり、今で言うと思い込みによる愚かな行為、がない限りは、基本的には不可能である。

そして、ある種の、本当に特殊な例外を除けば、死に方を選ぶことはできないし、してはならない。

「生」は、持つことである。人は生を選べるが、選ばない人も稀にいる。

いつまで生きるのかを予測するのは、不可能であると言われているが、多くの人には生きる使命というものが存在している。

つまりは、何のためにいつまで生きるのか、生きたいのかを、実は決めることができる。

ただし、決めた事を成し遂げるかどうかは保証されていない。

しかし、決めた事をどうやって成し遂げて行くのかを、積極的に考えて生きていくことができる。この時点で既に「生」を選んでいるのである。

人は、今時点で自分が持っているものを、理由なく突然、目の前で不条理に奪われようとすることがある時、それはお金の入った財布であり、家族や恋人、友人であり、自らの身体や命であるとき、瞬間的に、ある種無意識的に、生まれつき当然のように備わっているかのように、奪われまいとそれを阻止する行動をとる。全身の体温は高く上昇し、その身の毛は逆立ち、血は逆流するかの如く体内を駆け巡り、目は見開き、感情は昂り、気迫を持って、自らの大切なものを理由なく奪われる事を阻止する。

「生」は持つ事であり、人は生を選べるからである。

失う事も選べるではないかという意見もあるかもしれないが、これは違う。「生」により必要なものを選び、不要なものを捨てる、取捨している結果なのだ。ただ一方的に自ら失う事だけを選んでいるのではない。失うだけを選ぶ選択は、心の底から本意とはならないからだ。

 

野村克也氏は、沙知代夫人が存命である頃は、生きる目的を明確に持っていらっしゃったと思う。思うに「生」を持っていたのだ。

だが、沙知代夫人亡き後、野村氏から「生」を持つ意識、つまりは目的や目標が意識から薄れる、或いは消えたように思えてならない。

野村克也氏の人生の道程や思考やその時々の言葉の数々、金言等も含めて、多くの書籍やメディア媒体にその足跡が残っている。

野村氏ほど、人生を言語化して世間に出し切った方は居ないのではないだろうか。

そんな人生の先輩である野村氏と比べても、僕は、未だ自らのミッション  、ビジョン、ポリシーが決まりかねている。

世の中には一生のうち、ミッションが無いという人もいるそうである。決める、決めないではなく、ミッションが無いという人が存在する、という事のようである。

決めたいと思えば思うほど、なかなか決まらない。ズルズルと引っ張っている。

野村氏の言葉のひとつに「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というものがある。いい言葉だと思う。

何のために、どうして自分が前に進んでいるのか、それが分かってさえいれば負けにも納得がいき、次は、いつかは勝つのだ。

 

私見ではありますが、野村克也氏のように、全て出し切った、やり切ったと思えるであろう、人生を駆け抜けたいと思うのです。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。