どうもどうも。
Twitterみて気楽にコメントするのが信条ですが、難しそうなやつはスルーする、ユウキノスケイです。
#頭が弱い
最近勝手にフォローさせて頂きました、金子臣吾さんのツイートをふと見たんです。
今アベプラを見ているのですが、振り返ってみて体罰を受けて良かった、と思うことが一切ありません。ただ、私はパイプ椅子に叩きつけられるとか喉をチョークされるような感じだったので、何かしらバイアスがかかっているだろうな、と思います。理性的に根拠を持って肯定している人の意見を聞きたいです
— 金子臣吾 (@dachspress_shin) 2020年11月12日
アベプラって、何?
#そこかよ
というところから検索をかけて、戸塚さんと乙武さんを軸とした体罰に関する対談を視聴しました。
#無知は罪かも
体罰に関する問題は、個人の体験やキャリアで語る事は難しい。
というのも、教育の正解が分かるのは20年以上先だから、だと思っています。
「時代だったから」の流れは不正解。
「この育て方をすれば、東大に行ける!」
「この育て方をすれば、プロ野球選手になれる!」の答えがない。
ある意味、確率論だと思う。未来を予測するのに近い。
僕が思うのは、暴力による教育は間違ってると言うしかない。
力が強い方が、弱い方に振るうのが暴力。言葉で負けて、手を出したらその時点で負けじゃないですか。
極論は、武官が文官を暗殺してる様なもの。
下に見てるから、力を振るえる。言葉で説得できる力量がないから、力で解らせる。
じゃあ、教えを受ける側の力が圧倒的で、叩いたら叩き返されるのならば、正義はどちらになるのか。
体罰を正とする教育側が、圧倒的な暴力による死を感じた時、それでも自分の正義を貫き通せるのか。多分腰抜けの教育者は、それまでかざしていた正義を放棄するだろう。
結論は、本当に相手の将来や未来を考えて寄り添っているのかどうか、と言う事だと思う。
体罰有り無しではなく、教育者と名乗る人全てが、命を賭けて「日本の未来を担う人財を育てる気があるか」これにかかっている。
昔(といっても大分昔々)は何故、子どもを殴ったか。
「この子の未来のために」じゃないのかな。
今、何で子どもを殴るか。
「お前達はこうあるべき」だから伝わらないんじゃない?
そもそも、「あなたは」親に殴られたかもしれないが、「わたしは」親に殴られたことがない。教育者や先輩には殴られましたよ。
#父さんにも殴られた事ないのに
殴られた事がない人が一定数ある中で、殴るが正義を議論する事が「ズレている」と思う人がいない事が、日本が「殴られて育つ」がマジョリティだと言うことの証明なんだと思う。
教育者を名乗る者が抱く「あるべき姿」に合うか合わないかという物差しで測るから、体罰が生まれる。話してもわからないから殴る、だから問題なんでしょう。
仮に体罰を容認する教育者を名乗るなら、教育者の生き様として、サラリーマンくらい死ぬ気でやった方が(働いた方が)いい。
嫌なら辞めなよ、あんたの代わりはいくらでもいるから。
で、死ぬ気でやってないなら「死ぬ気でやりなさい!」って、教頭から闘魂注入してもらいさない。それで目が覚めるでしょう。
僕はこの番組のダイジェストを観てて、戸塚さんが「落ちこぼれを文科省は発達障害と言ってる」発言に対して「これは別の話だ。放送で言っちゃいけないですよ」という、アナウンサー的人の話があって→続きはameba TVで。
この流れが一番イラっときた。
#普段あんまりイラッとこない
だったら、最初からその部分カットしろよ。
放送で言っちゃいけないと思うなら、打ち切れ。そのコメント言ってる事自体ウソじゃん。お前も加担者だ。
と、酔っ払いながら酒の肴にしたのでした。
体罰は否定です。僕は親に殴られた事がないからです。殴らなくても、伝わるんだよ。
ちゃんと寄り添えばね。
では、そういう事で。