柳の心を知る

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書くということ #3000文字チャレンジ

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僕は、字が汚かった。

 

字がきたないという事は、結構自覚できるものだと思う。

特に字の場合、お手本というものが存在していて、それを見ながら、なぞりながら覚える。

形が不揃いであり、バランスが不均衡であり、一字も、全体も整っていない。

お手本とあまりにかけ離れたその不完全極まりない完成形を見ると、見た目からして「きたない字」だとわかるのだ。

それが綺麗な字では無いとわかっていても、何故か綺麗に字を書けないものなのだ。

 

書こうと思っても、そういう風に書けない。

 

お手本との比較の結果、字が汚いと認識する。

 

小学校低学年の時の事だ。

目にあまる字の汚さに、親も僕の将来を心配したのだろう。

せめて字は綺麗な方が良いという事で、書道教室に通わせてもらった。

(せめてってなんだ、せめてってw)

 

字が綺麗な人は大概賢い。

仮に、字が超絶に上手くて偏差値が学年最下位、という経歴を持つ人がいたとする。

 

そんな方に会ったことは、僕の経験では今のところは無い。むしろ、そんな稀有な人がいるならば、是非会ってみたい。

その逆で、字が超絶に上手くて偏差値が学年トップという経歴の人はいた。彼女はオール現役でキャリアアップして、現在は法曹界で活躍している。

 

字が綺麗=賢い、という方程式も実は偏見なのだけども。

どうしてもそういうイメージは抜けないし、字が綺麗な人は賢い事が多い。

僕はこれの統計を取った事はないけど、体感値としてそうかなと思う。

でも、視覚から得た情報を頭でイメージして、手に伝えて字を再現させるのが上手い人は、それだけで賢い気がする。

そう思うと、字ばかりではなく絵が上手な人も似たセンスがあるのだろう。

 

イメージ、形、雰囲気。

視界でそれを掴んでも、具現化がしづらい。

それを見事に再現する。

その場の雰囲気や情景を、自分の目線や心模様までもを混ぜた色に落とし込んで、表現する。

 

そんな再現ができる人が、賢くない訳があろうか、いや無い。

 

美的感覚は人それぞれだけど、良いものは良く、綺麗なものは大概整っていて綺麗であるし、整えられた字や絵は、単純に素晴らしいなと感じる事ができる。 

 

字が綺麗だというのは、ちょっとしたスキルではあるし、達筆であれば箔がつくかもしれない。字が綺麗だというのは、それだけで価値を有している。

 

と、言いながら。

少し話は脱線するけど、今の時代に子どもが習い事をするなら、書道よりも英会話教室の方が良いと思う。

字が汚いと損する、という親心もあるけれど、英語が喋れないと損する、という親心の方が、個人的には重心が寄ると思うのだ。

ここでは、書道と英会話を比較して、甲乙つけたいという訳では無い。

このパソコン、スマホが普及したペーパーレスの時代においても、まだまだペンで字を書くことは多くて、字が綺麗というスキルは一目置かれるものではある。

 

しかし僕は、英語が喋れるという人にも一目置いてしまう。

というか、憧れてしまう。

英語が喋れるなんて、とてつもないアドバンテージだ。

僕が子どもの頃から「これからの時代は英語・コンピューター・中国」と、言われて育った。

本当にそうだった。

この先は、より色濃く英語なんだと思う。

 

比較無しに英語が喋れる人を羨望の眼差しで見てしまうし、純粋に羨ましい。

 

字が綺麗に越した事はないけどもね。

 

話を戻したい。

字が独特な僕が、習字教室に通わせてもらうこととなり、書をたしなむ人となった。

書道に触れて4年余りで、だいぶ字の形やバランスも整い、そこそこ上手くはなったと実感していた。

しかし、書道をやっている当時の僕には、ある拭い去れない劣等感があった。

 

それは、年に一度、ヘタすると二度あった学校での書道展だった。

一律に全員が同じ字を書き、それを貼り出し、上手な書が表彰されるという、例のアレだ。

 

僕は書道をやっている割に、表彰者に選ばれないという残念な存在だった。

小学校6年までの間に、確か何かで銅賞的なものを賜ったのが一度あるかな、というレベル。

道教室に通ってもいない、普通に字の上手い子に、いとも簡単に負けてしまうのだった。

字は、例え上手に書けなくても、見れば上手いかどうかはわかるもの。

僕の書いた完成品は、皆と一緒に貼り出されて並べられる。

完全なる晒し首だなと、僕は思った。

 

これは例えて言うならば。

スイミングに通っているのに、何もしてない素人よりクロールが遅い。

ピアノ教室に通っているのに、伴奏役に選ばれない。

サッカー部に入っているのに、リフティングで野球部に負ける。

野球部なのに、サッカー部に三振に打ち取られる。

陸上部なのに、リレーの選手になれない。

 

といった、屈辱感たっぷりな出来事を毎年味わってきた。

道教室に通っている人に勝つ、という称号を僕は他人に与え続けるという、やられ役をやってきたのだ。

 

才能には努力では勝てないのかもしれない、とボンヤリと思った最初の出来事かもしれない。

 

とはいえ、小学校6年の卒業時には3段くらいにはなっていた。

それなりな形にはなったのだと思う。

 

そして数は少ないものの、稀に「字が上手だね」とか「綺麗な字を書きますね」と言って頂けることもあり、書道を少しやってましたという事を話題に出して話を膨らませて、雑談の話材にしたりする事もあった。

 

ここ最近は、前述のパソコン、スマートフォンの加速的普及が後押しして、字を書く頻度も減ってきていた。

紙文書においてはほぼ、PC入力したものを出力した、整った書体の完成物となっている。

 

そして、ある日気付いたのだ。

 

僕は、随分と字が汚くなっている。

 

具体的にどの位汚いか。

書体の基本的な体裁は、何とか整ってはいる。

しかし、字に気持ちが入ってはいない。

さも面倒くさそうに書いているという状態、綺麗に書こうという気持ちが無い状態が、字にはストレートに表れていた。

 

人に伝える為に、字や言葉は存在する。

字は、紙に書いて残す為にある。

それが仮に日記であっても、未来の自分が読むものだ。

例えなぐり書きであっても、それは誰かに何かを伝えるために存在している。

 

字は、書いた時点で自分を含めた誰かへのプレゼントなのかも知れないと思った時、僕はもう一度字を綺麗に書こうと心に決めた。

 

そして、字の練習を始めることにした。

当初はもう一度書道教室に通おうかとも考えてみたが、時間の面で続けるのは物理的に困難だった。

そして、曲がりなりにも基本的な指導は受けているので、練習帳を購入して、独学で復習していくことにした。

 

色んな練習帳がある中で、ある一冊のペン字練習帳を購入した。30日で必ず上手くなる、という触れ込みの練習帳だった。

 

毎日、見開きで1ページづつ、コツコツと書いていった。

 

過去に子どもが漢字練習をしているときに、こんな事を言った事がある。

 

「字は、綺麗に書こうと心を込めて書いたら、必ず綺麗に書けるものだよ」と。

 

言葉はブーメランだ。

 

ペン字練習をしながら思う事は、僕は綺麗に字を書こうという気持ちが無かったから、字が乱れて行ったのだと痛感した。

綺麗に書こう、綺麗に書きたいと決めて書いているその字は、綺麗に書けていた。

 

そして、字を綺麗に書きながら思うのだ。

字が汚い、綺麗というのも個性なのだと。

 

何故僕は、お手本の字の通り書けないから汚いと認識したのだろう。

そして、書道コンクールの貼り出しを晒し首だと思ったのだろう。

 

全て、他人との比較をしてしまっていたからなんだと思う。

そして、比較されて優ることのみを考えて字を書いていたから、書道における上達がなかったのだと今は思う。

そこにはきっと、誰かに向けて、心を込めて書くという気持ちがなかったのだろう。

 

字は綺麗に越した事はない。

僕がそう書きたいと思って書く字は、僕の個性であり、ほかの誰かと比較する必要はない。

 

人と比べる事なく、綺麗に字を書くという自己満足を得る為、字を整えてみた。

そして、これからは心を込めて書いていきたい。

 

誰かに何かを伝えるために心を込めて書いた字は、どの字もきっと美しい。

それは字体ばかりではなく、文章であってもそうなのだ。

 

それが僕の思う「書くということ」です。

 

ありがとう、3000文字チャレンジ。

 

I'm so glad to see you.

See you again.